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2017.08.20 Sunday

何もしない写真

 

前回のブログでお話ししたが、今日の写真はその日に撮った雨の森だ。場所は霧ケ峰高原の手前、標高が約1300メートルくらい。

雲の中にじっと佇む森の木々は、凛として力強く美しい。

そして、その木肌で存分にミストととなった水分を吸い込んでいるように見える。木も深呼吸をする。

ぼくは三脚につけたカメラを持って、森の中を歩く。装備が重いとそうはいかないが、アルパというこのフィールドカメラなら全く苦にはならない。三脚もカーボンになって本当に楽になった。

「ぼくの写真には、確固たるコンゼプトがない」

前回のブログにはそう書いてしまったが、本当にそうだろうか。コンセプトという言葉にすればそうかもしれないが、もっとシンプルに「どうして撮っているのか?」と聞き直せば、そこにはやはりそれなりの理由はある。

 

森林、特に人口的に植えられた森や、開発の後自然発生した二次林を撮っているが、そこにはそう言った「条件」が優先されているわけではない。日本の森林の40%はそういう森、それでもただそこにある森が美しいというだけだ。

太古から変わらない日本の僅かな原生林も確かに被写体としては魅力的だが、失われてゆく自然遺産を撮ろうという発想はぼくにはない。たとえ原生林でもそこが美しければ撮るだけだ。植林された森でもしかり。

それは、日本人としての侘び寂びの感覚をもち、できる限りシンプルにあるがままを見つめるという行為の先に、自然という被写体があるだけ。空気、水、植物、土。そして、それらが織りなす偶然のコンポジションの圧倒的な強さとバランス。色彩。最近はこの色彩という要素がとっても重要になってきている。だから、森のシリーズは昨年から全てカラーになった。そのリアリティーと何もしないという潔さは、今のぼくの写真作法にとって外すことのできない要素になっている。

何を持ってその画角を良しとしているのかはわからない。だが、そこでなくてはならない何かがぼくに決断をさせる。三脚を立てて、レリーズをつける。距離をレーザー距離計で測ったらリングを合わせて、絞りを16に。ゆっくりとスローシャッターを切る。ただそれだけのことだ。

一時、ぼくは自分の写真にどんな現代性があるのだろうと考えていた。なんかコンセプトを明快にするべきアートワークでなくてはならないように感じていた。明らかにニューヨークではそれを求められた。もちろんその様な現代アートのような写真にも大いに興味はあるし、やってみたいとも思う。だが、それはどこか自分らしくないように感じているのは、正直な気持ちだ。

そして、様々な話題の写真集や展覧会を見ると自分の作品が弱く見える。

なぜ?弱い作品とは何が弱いのだろう。

それは、どこかに自分自身への不信感があるのではないか?自分の感覚を信じることのできない不信感。もっと突き詰めれば、自分の写真の価値観を他者と比較することにばかりに気を使っている。

誰でも評価ということを気にするものである。だが、そこを振り切ることが大切だ。これはとっても難しいことだけど。

 

自分の何かがそこでシャッターを切ることを望んんだのだから、それを信じること。自分の撮った風景や人の写真をもう一度眼底に取り込んでよく見つめる。その時には気づかなかった様々なディティールを再確認する。

自然だけは人にはどうすることもできない。雨を止めることも、晴らすことも。人も突き詰めれば自然の一部である。

そこを相手にするならば、写真家としてのぼくなど、何もする力などない。

だから、できるならば何もしない写真がいい。自然と共にある写真がいい。

 

ALPA12 70mm

 

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