ARCHIVE  ENTRY  COMMENT  TRACKBACK  CATEGORY  RECOMMEND  LINK  PROFILE  OTHERS
<< October 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 写真は未来を写せるか。 | main | 記憶の共存 >>
2019.01.14 Monday

ヌードの記憶

 

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお付き合いください。

 

少し昔の写真を整理していたら人参の写真ができきた。ライトルームの小さなインデックスにドキッとする写真発見!で、よくみたらこの変な写真だった。ちょっと変わった人参を見つけて買って撮ったのだと思う。もちろん、なんだかヌードのようだったから。

まあ人参だから人とも言える。笑

さて、この人参にドキッとしたのはなぜだろう。女体を連想させたから?

エドワードウェストンの有名なピーマンの写真、あれも女性のヌードを連想させる。野菜は時として色っぽい。だが、彼の名作にはドキッとはしなかった。じわっと美しいと感じた。しかしこの人参にはドキッとした。

ぼくはその理由は、写真というメディアにとってとっても大切な何かのヒントを感じた。

それは何かと言うと、匿名性だ。

ウェストンのピーマンは一瞬顔を抱え込んだ女性を連想させる。もちろん野菜であって本物の女性ではないから顔はないけど、そこには顔が連想させられるのだ。しかし、この人参には全く顔がない。胴体と足だけ。

ぼくは多くはないが、ヌード作品も撮っているが、よく顔をフレームから外して撮影する。そこにはどこの誰という個人としての存在感はいらないと感じるからだ。

シンプルに人の肉体の美しさと存在感を撮影したいわけで、個人的な「裸を暴く撮影」にはあまり興味がない。

親しい間柄でのヌード撮影はまた違った意味を持っている。当然それらにはまず顔がある。そしてファインダーの中には愛情もある。それらはプライベート写真だ。それを作品として公開するならまた別の意味を持ってくる。私写真としてだ。

しかし、どなたかにお願いしてヌードを撮影するときには、非情なくらいに肉体を撮影したいと思っている。造形、質感。だが僕の場合はそこにエロスを感じない。妙にクールなヌード作品となってしまう。

それらは後から客観的に観て、一つも面白くない。ドキドキもしないし、ムラムラともしない。ダビデ像のような退屈さ。

そのわけは、子供時代のある体験によるものだと思っている。

いつ頃だったかは覚えていないが、おそらく僕がまだ幼稚園の頃だと思う。

家族3人で温泉に行った。夜中に目が醒めた。だがそこにはいるはずの両親がいない。布団はもぬけの殻である。

ぼくは急に不安になり、宿を歩き回って二人を探した。すると離れの温泉に光が灯っていた。

風呂に入っているんだと、そこへ行き洗い場の引き戸を引いた。

そこで父は、お湯に浸かる母のヌードを撮影していた。

今となっては笑い話にだが、当時の僕はとってもびっくりし、それは時が経つにつれてヌードという撮影行為が妙に触れてはならない禁断のものになっていった。それが本当の理由かどうかはわからないが、きっとその体験は意外にも今だにぼくの作品に影響しているのだと思う。作品の個性とは体験が作る。

ヌード写真は難しい。エロでないヌードはもう既に撮り尽くされているのかもしれない。でもエロとしてのヌードは時代と時間に同時進行のドキュメンタリーである。だから面白い。

ぼくにはそういうエロの素敵なヌードを撮れる自信はないが、エロとしての写真芸術は普遍だし、そこには写真の本質が見え隠れしていると思う。

果たして、あの時の父の作品はいったいどんなヌードになっていたのだろうか。いまになって時々観てみたかったと思うのである。

 

 

 

コメント
コメントする