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2019.09.03 Tuesday

摩訶不思議な世界に念を送る。

 

自然界の造形は、摩訶不思議に満ちている。

雨の山を散策すると、以前ならフィルムの5本くらいはあっという間になくなってしまいうだろう。

幸いにして今はデジタルカメラを持ち歩くので、そうそうメモリーカードが一杯になってしまうということは無いが、

家に帰って画像を開けば、こんなに撮ったのかと自分自身が驚くことになる。

そして、その一枚一枚に細かく目を通す作業は、それなりに疲労を伴うがあっという間に午後の時間が過ぎてしまう。

コンピュータの画面から1カットずつクリックして撮影の記憶を辿る。記憶が鮮明かどうか?改めて驚きを感じるか?

写真を撮った自分と観る自分の対話がそこにある。

その過程で再び手を止める一枚に再会する。

その一枚にいつも感じるのは、自然界の造形の摩訶不思議である。

それも雄大な風景写真ならば、その造形の人知を超えた神秘的なまでの成り立ちや光に感動を感じるのは至極当然なのだけど、

小さな花、葉っぱ、小枝、土で成り立った足元の世界にも、もっと奇跡的な摩訶不思議な造形を見つけることが多々ある。

足元の世界は素晴らしい。

 

この写真は二ヶ月ほど前に訪れた山中での1カットだ。朝からずっと雨だったがぼくにとって雨は嬉しい。

普段の何気ない風景を奇跡の風景に一変させてくれるからだ。

おそらくそれは人間が水に対して本能的な愛情を持っているからだと思う。生きていくには水は命だから。

雨に濡れた風景のマテリアルが愛おしくなるのは、ぼくに限ったことではないと思う。

この白い花の名前がなんというのかは知り得ないが、なんとも儚く、それでも健気な命の連鎖を繋ごうと咲く花。

その花の周りに落ちた小枝は、まるでそれを守る鳥の巣のよう。

そこに絡む草の葉の配置は、どうやっても人には作り得ない完璧なバランス。

そこに雨の雫が、命を守ろうとするかのように寄り添っている、

ぼくの作品がどうのこうのと言うことなど、ほんとうに小っぽけなことだと笑われてしまう。

もしもぼくに絵を描く力があったとしたら、写真ではなく、この場にキャンパスを立てて、

畏敬の念とともに油彩で丁寧に描き写したくなる。

 

写真は便利な道具だ。絵を描くと言う行為を飛び越して、この奇跡の造形を一瞬に記録してくれる。

しかしながら、それはどこまでも感情のカケラもない記録に過ぎない。

発見者であるぼくの畏れや感激に、カメラという記録装置は興味がないらしい。

だから、少しでもその記録を記憶に変えるために、ずっとその瞬間に念を送るのである。

撮影している時のぼくを他の人から見れば、時間にして数秒の撮影だが、

摩訶不思議なことにその数秒はぼくにとって数日にも匹敵する長い時間なのである。

 

自然の摩訶不思議とぼくの中の摩訶不思議の出会い。

そしてその摩訶不思議を外に写真というモノとして存在させる作業がプリントだ。

ぼくの写真の流儀である。

 

ライカQ2

 

 

 

 

 

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