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2019.09.11 Wednesday

オートバイ

 

Motorcycle モーターサイクルというと今は一般的だが、ぼくが免許を取った頃はもっぱらオートバイであった。バイクとは今でもいうけども、オートバイという響きには、いまや古臭さを感じる。コーデュロイをコールテンと言っていたほどの違和感ではないけど。

しかし、僕にはオートバイというそのちょっとレトロな響きに、ある情景が絡んくる。

子供の頃釣りが好きだった。毎年夏休みになると宇和島に帰省して、叔父貴に防波堤でのボラ釣りによく連れて行ってももらったものだ。その日も早朝から釣りに向かった。叔父貴の足はラビットというベージュのオートバイだった。もしかしたらリアタイヤカバーは別の色に塗られたツートーンだったかもしれない。おそらく150ccクラスだったと思う。

叔父貴は人懐っこい笑顔で車体の右側にあるキックアームを軽く踏み降ろすと、ボロロン、とエンジンをかけた。

「みきちゃん、乗って」ぼくは釣竿を左手に持ち、右手で叔父貴の腰に手を回し、その手に力を入れる。まだ足がステップにつかないから、頼りはその右腕だけだ。車体は、いとも簡単にボロロロと走り出す。その時の、体がすこし後ろに持っていかれる加速感が好きだった。オートバイはすこしスピードが乗ってきた。

ふと横を見ると、ちょうどその時狭い路地から一匹の野犬が飛び出してきた。バウバウバウーーーーー!僕と目のあった野犬は突然走り出し、すごい形相でオートバイを追っかけてきたのだ。わーわーわー!怖い!

叔父貴は、すぐに右手に力を入れてフルスロットル。「みきちゃん、足あげて!」もう野犬に噛みつかれそうである。

オートバイはすごい加速力でぐんぐんと速度をあげて、一気にその凶暴な野犬を振り切った。

上にあげた両足は震え、体が硬直している。「みきちゃん、だいじょうぶやったか?こわかったの」その日の釣果は全く思い出せない。だけどもオートバイはすごい。いざとなったらすごい早い。オートバイは強い、イコールかっこいい。人生初めての刷り込みである。

 

僕は人並みに成長し高校生になった。オートバイの免許は16歳で取ることができる。クラスには数人、二輪免許を持った奴がいた。

ある日のこと、仲の良かった金沢という奴が学校に来なかった。翌日も来なかった。もともと少し不良だったからたまにそういうことはあったが、その日は違った。「みんな、悲しい知らせがある。」担任のその言葉でぼくにはその先がわかった。

首都高速でクローズした料金所を突破しようとして転倒し、即死だったそうだ。「バイクは危険だから乗るな」という担任の言葉が頭の中を空回りしていた。金沢はいつも黙っていて、静かな目をした男だった。マウンテンやレッドチェッペリンを聴いていて、ロックの話には少しだけ言葉を並べた。学ランは第二ボタンまで外して、いつも中に白のTシャツを着ていた。オートバイの似合うかっこいい男だった。

 

その後、社会人として働き始めた時に、突然に免許を取ることにした。もちろん二輪免許だ。家族には通勤費が浮かせられるからと言ったが、明らかに二輪に乗りたかったからだ。小金井の教習所に通い、二週間で免許を取得した。そしてHONDAのホーク2という黒い400ccのオートバイを手に入れると、通勤だけではなくバイクに乗らない日はなかった。休日でもバイクに触っていた。僕は乗る度に、あのスクーターバイクの快感と死んだ金沢を意識の中に感じていた。

オートバイは僕にとって「かっこいいもの」の一つだった。金沢の命を奪ったバイクだったけど、僕にはなぜかそのこともバイクが危険と紙一重の乗り物だということに、男らしさすら感じる記憶として残っていた。

やがて子供ができて、クルマがあればと家族にも言われたが、ぼくはオートバイを降りなかった。いや降りるどころか、ますますその熱は上がり、ついにはDUCATIというイタリアのスポーツバイクに巡り合って、それに夢中になっていた。そして家族にはサイドカーだった。ベスパの可愛いサイドカーだ

僕が四輪の免許を取ったのは28歳くらいだったと思う。妹がレーシングドライバーと結婚してその影響が強かった。

しかし、それでもクルマとバイクの6輪生活として、バイク人生は続く。

いままで何台ものクルマとバイクを乗り継いできたが、その乗り物人生でいつも側にあったのはDUCATIだった。もうその頃はモーターサイクルという言葉が自然で、オートバイとは言わなくなった。オートバイはバイクという呼び方に変わった。

しかし、DUCATIはいまでも僕にはオートバイである。デザインに優れたとっても美しいモーターサイクルだが、ぼくにはバイクというイメージだ。

子供時代の刷り込み、高校時代の友人の死、成人してから走ってきた何十万キロという道。バイクはそれ単体では立っていることもできない乗り物である。ライダーが乗って初めて走ることのできるもの。当然、将来も自動運転などありえない。しかし、そのオートバイに僕は逆に支えられてきた。バイクがなければ僕は人生を走り続けることすらできなかったかもしれない。

 

60歳も半ばに近くなると、流石に昔のようにバイクのキックを踏み降ろすことができなくなってきた。先日もうっかりとキックをやり損ねて腰を痛めてしまった。「あー、いよいよ大好きなバイクにも乗れなくなるなあ」ちょっとばかり寂しい思いに浸っていた。

そして大切に乗ってきた最後のDUCATI 450 DESMOを手放してしまった。なんだか乗れないなら持っていてもバイクが泣くと思ったからだ。しかし、実際にDUCATIが引き取られていき、茅野にあるガレージが空っぽになると、自分の人生の終わりを自らが手にしたような、とっても情けない感情がやってきた。「もうヨボヨボになってもスーパーカブがある!」という生き方が理想だったのに。

僕には、いつかはこのバイクに乗るぞ!という一台があった。それはやはりDUCATIで、シングルではなくツインだ。それも1974年、大学に入って、免許を取ろうと思った年に製造された黄色い750ccのバイクだ。当時からバイク雑誌で、なんてかっこいいんだろうといつも眺めていたが、その時の中型限定免許では乗れるはずもない。もちろん買えるわけもないが。

先日、懇意にしているバイクショップから電話があった。

「蓮井さん、前に話してくれた、人生最後に乗るとしたらこれしかないなあ、と言っていたDUCATI うちの社長がコレクションしているんですが、手放してもいいと言ってますよ」と連絡をくれたのだ。僕は「ほんとですか?でも先日最後のバイクになると思っていたDESMOを手放したばかりですよ。」と笑ったのだが、ぼくの心の小さな種火に再び大きな火がついてしまった。

 

ぼくがオートバイ好きな理由はもっと他にもたくさんあって、とてもここには書き切れないのだが、もしもオートバイに巡り合わなかったら、どういう人生になっていたのだろう。もちろんもっと素敵な何かに巡り合っていたと思う。しかし運命とはそういうものだ。自分に与えられた出来事と邂逅に全力でぶち当たるのが礼儀である。それが正しく、ちょっと幼く言えば、格好いいことだと思っている。まあ、今の自分が格好いいかどうかは決して分からないが、せめて「かっこよくありたい」という気持ちだけは萎えさせてはいけない。

 

しばらく、いやこの先の人生、まだまだオートバイとの付き合いが素敵な出来事に巡り合わせてくれそうである。

まずは、バイクに乗るための体力づくりからだ。

 

iphone 車山高原にて

 

 

 

 

 

 

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