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2019.12.29 Sunday

写真であって写真でない写真がすべて。

 

今年もあと2日だ。光陰矢の如しと言うが、まさにそれは実感を伴う。一年の過ぎゆくスピードが年齢の積み重ねと共にどんどん加速する。それでも、1日の重みが軽くなったわけではない。むしろその時間の量に対してその内容は一段と深まっている。

日頃の生活ではあまりそれを自分自身に滲ませることは避けているが、朝に夕に最近の高性能なデジタルカメラで小さな世界を写していると、思い至ることが多くある。それらは、人に語るほどのことではないのだが、すこし書いてみたくなった。

僕のポッケにいつもあるのは携帯と財布だ。財布はこのわずか一年で携帯で代用できることが多くなったから、持ち歩かないこともある。必要なのは今や免許証と保健証くらいで、それだって近い内には携帯に収納されるかもしれない。要するにぼくの普段の生活をこの小さな10万円ごときのツールに安易にも預けていると言うことだ。なんとも情けないことだが、まったく携帯なくしては不安でしょうがなくなる。

おそらくこれは僕に限ったことではないと思う。現代人は多かれ少なかれ、携帯依存症ではないだろうか。その依存症になるもう一つの大きな理由が、携帯に内蔵されている高性能なカメラ機能だ。もう今や話題にも批判の対象にもならない携帯のカメラ。美味しいものを前にすればパチリ。好きな人と会えばカシャ。良い風景を見つければパシャ。もう写真を撮るという気負いも不安もそこにはない。まるで大きく息を吸うくらいの感覚だろう。そうして、1日のお終いにパソコンを開くと、なんとも有難いことに今日の写真がもう転送されている。ざっと数えれば40枚や50枚ではきかないこともある。

ぼくは写真家を名乗っている(最近は思うところあって写真士?写真師?を名乗ろうかと思っている)が、どちらにしても写真を生業としている。生業と言うものは恐ろしいもので、身に染みていると言うことである。身体が写真を撮るという行為を覚えてしまっている。カメラが例え携帯であろうともそれは変わらない。無意識に撮影モードになり、携帯の画面にスッとなんらかの意識が入り込む。そしてたまに自分なりに不可解な一枚が写ったときに初めて、ああいつものカメラで撮ればよかったと後悔するのである。それは単に画像サイズの問題だと思われがちだが、やはりカメラの眼であるレンズの性能の問題だ。その不可解な感覚がいつものレンズならばもっと明確に埋め込まれるからだ。では、その不可解な感覚とはなんだろうか。なかなか言語化できないものだが、拙くも敢えて言語化すれば、網膜の表ではなく裏側にある心象という映像だ。それはなぜ不可解かと言うと時間と空間の概念が矛盾していて捻れているからだ。この捻れはまったく予想できずにやってくる。瞬間に音はすべて消え去り、時間も止まってしまっているような感覚。それがやってきたときに映る映像は写真であっても写真ではない。(その写真ではないものがそう在るにはレンズのボケ具合とか色合いとかが自分の身体に染み付いた感覚と一致していなくてはならない)ちょっと話が横にそれてしまったので元に戻すことにする。

携帯のカメラが1日に撮る枚数は先にも言ったように50枚近くなることもある。僕はほとんど記録の写真は撮らない。美味しいものとかをメモリーするためや、人と会ったときの記録などは。撮る写真のほとんどはたわいの無い風景や街のスナップだ。50枚以上のスナップ写真はほとんどが、誰にも役立たず、記録の意味もなく、大上段に時代の鏡なんて大層なものでも無い。だが、その中にたまに不可解なとっても大切な写真が写ることがある。実は50枚以上の写真の全てはそれを写すためにあるのだ。それとは先ほどの不可解な網膜の裏側の世界である。その世界は年を重ねるごとに明確になってきている。どんどん早くなる時間に反比例して、時間を失っていく感覚。僕の存在そのものを感じることができる瞬間はそう言うところにある。その大切ないつ来るともしれない瞬間のために、出来るだけいつものカメラを持ち歩くことにしている。ポッケの携帯と財布と肩にカメラ。

人生に油断は禁物だ。便利という甘い誘惑に打ち勝つのも大変だ。本性と言うものはとっても怠けることが好きである。

そして、心はいつも大きく揺れる。悲しかったり、嬉しかったり。しかし、真に納得できる写真を得るにはその心の揺らぎをいかに抑えるかにかかっている。なぜなら、網膜の裏側の心象は自分自身が冷静にいなくて観ることができないからである。

日々の訓練は大切だ。いつもどこかにもう一人の自分を確認しながら生きていることが写真の訓練だと思う。

写真であって写真でない写真、それは自分の中にある小さな箱。とっても大切な宝箱なのだ。自分自身を知るためにもそれを大切にしなくてはならない。写真を続けている一番の理由はそこにある。

今年最後のブログは自戒のブログだが、またまた訳のわからん内容だと笑っていただきたい。一年のお付き合いに皆様方に心から感謝しつつ、来年を見据えようと思う。

 

蓮井幹生

 

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